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<戦国期の井伊家を支えた武将の墓>
戦国初期ここ井伊領では、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、三河の徳川氏が三つ巴で覇権を争った。遠江の代表的国人領主(在地領主)であった井伊氏にとって受難の時代だった。この井伊家を懸命に支えた武将たちがここに葬られている。 |
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<桶狭間合戦戦死の墓>
永禄3年5月19日、井伊22代直盛に従って戦死した武将16名を祀る。 |
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<新野左馬助の墓>
永禄5年井伊23代直親が今川氏真の手で殺害され、その子直政も命をねらわれる。時の家老新野左馬助が命にかえ、氏真に訴え直政の命を救った。 |
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<中野氏の墓>
井伊氏の一族中野氏の墓です。中野三代信濃守は幼い直政に代わり井伊谷城代を務め、永禄7年引馬城攻めで戦死した。 |
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<鈴木重時の墓>
直政の祖父、井伊谷三人衆の一人、三河山吉田城主で、永禄12年堀江城攻めで戦死した。 |
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<井伊谷三人衆>
永禄11年(1568)12月15日、徳川家康は、井伊谷3人衆の先導で豊川、宇利を経て三河遠州境の陣座峠を越え、奥山へ入り井伊谷城を攻める。当主不在の城はあっさり落ちる。家康は兵を整え瀬戸、三方原を経由し12月18日引馬城(浜松城)を攻略、念願の遠州進攻を果たし、いよいよ天下取りに向け大きく一歩を踏み出した。
この時家康を助けたのが、のちに井伊谷三人衆と呼ばれた奥三河の土豪鈴木重時(新城市山吉田城主)、菅沼忠久(都田在・田峯菅沼の分家)、近藤康用(新城市宇利城主)です。
三人は今川の配下で、この時期井伊氏の与力として仕えていたが、今川氏真が井伊氏を滅亡させようとする仕打ちに腹を立てていた。そこへ家康が恩賞を厚くし、徳川方につくように誘う。そこで三人は家康に内応し、家康の遠州進攻を援けた。
三人衆は、龍譚寺で葬られ、この墓所の奥に祀られている。井伊氏が彦根に移ると、三人衆のうち近藤家が幕末までここ井伊領を治めていた。
・鈴木重時:永禄12年2月5日堀江城合戦で戦死 享年42歳
・菅沼忠久:天正10年没
・近藤康用:天正16年3月2日井伊谷で没 享年73歳 |