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<井伊氏歴代墓所>
井の国を本拠としてきた井伊氏は、平安時代より室町時代まで、遠江の代表的国人領主として西遠地方(静岡県西部地方)を治めてきた。井伊介(いいのすけ)を名乗り鎌倉幕府に仕え、南朝方の皇子宗長親王を迎え、北朝軍と戦った。室町時代今川軍が遠江に侵攻すると、敢然と立ち向かったが敗れた。
戦国時代に入った井伊家は受難の連続だったが、今川義元に従って出陣した井伊家の当主22代直盛は桶狭間で戦死。永禄5年には養子直親が今川の手で殺害される。やむなく龍譚寺南渓和尚は直盛の娘、次郎法師を「女性地頭」に立て、井伊家の急場をしのいだ。
永禄11年徳川家康が遠州に侵攻、井伊領を押領した家老を追放し井伊谷(いいのや)を平定する。天正3年井伊家24代直政が浜松城で家康に仕え、見事に井伊家を再興した。この墓所には、こうした井伊氏元祖共保より600年の歴史が静かに眠っている。 |
<墓の位置>
左側
(奥から) |
1番目 |
直盛(直虎の父・桶狭間の戦いで討死)の妻 |
2番目 |
直虎 (次郎法師・直政の義母) |
3番目 |
直親(直盛の後に家督を継ぐが今川家の家臣に襲撃され討死) |
4番目 |
直親の妻 |
5番目 |
直政(家康に仕える。後に徳川四天王・譜代筆頭になる) |
右側の列は井伊家歴代之墓 |
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<徳川四天王 井伊直政>
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田(ほうだ)で、名門井伊氏の嫡男として生まれた。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立つ。8歳の時、直政が龍譚寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長する。
15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てる。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付ける。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられた。この功で直政は6万石に出世、井伊家再興を果たした。
慶長5年、関ヶ原合戦では東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世した。
慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じた。 |