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一学はここ宮迫の百姓の生まれで、幼名を藤作といった。少年のころから剣術を好み、岡山の陣屋へ通った。
義央(よしひさ)は(吉良上野介)は、藤作に目をかけ、15歳で江戸に呼び寄せ、やがて中小姓にとりたてた。赤穂浪士襲撃の夜一学は奮戦して討死、行年25歳であった。
遺骨は江戸万昌院に葬られ、円融寺に分骨した。時の円光上人は一学の法名端翁元的を改め、義央 の法名にちなんで実相院宗禅信士として、ここに葬った。
一学は、一角 逸学 逸覚とも書かれ仮名手本忠臣蔵では鷺坂伴内(さぎさかばんない)の名で知られている。
<尾崎士郎「清水一学」より>
一学目がけて斬り込んでくる浪士の数は五人十人とふえてくる。眼も醒むるばかりの雪の色であった。よき死に場所だという気持ちがはなやかな思いをわき立たせるようである。血にまみれた彼の両刀に月の光がキラキラと映った。 |
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吉良町・円融寺の裏の公共墓地にて、清水一学の墓の場所を探す。墓地の上部で、墓の清掃などをしていた女性に、清水一学の墓をどこかと尋ねる。女性は、「一学さんのお墓はあちらの方で…」との返事。一学さんと親しみを込めた言い方に、吉良家に対する心情を垣間見た感じがした。 |
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