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梅田雲浜(うんぴん)は名を始め義質、のち改めて定明といった。通称は源次郎。雲浜は号である。若狭国小浜(福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化12年(1815)6月7日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。
朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永5年(1852)幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし、藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し、尊王攘夷論を唱え、梁川星巌とともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排除も企てたが、安政5年(1858)の「安政の大獄」で捕らえられた。翌6年9月14日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久2年(1862)現在の墓石が建てられた。
墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と戒名が刻まれている。 |
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雲浜の墓がある海禅寺。かつては、臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院であった。現在は臨済宗系の単立寺院。江戸時代の明暦の大火(振袖火事)の後、現在の地に移る。蜂須賀家の庇護が厚く、世に「阿波様寺」と呼ばれた。
関東大震災、東京大空襲で被害を受けた。 |
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<梅田雲浜の碑>
嘉永6年(1853)6月のペリー率いる黒船来航以降、砲艦外交に屈服する形で解かれた諸外国との国交は、安政元年(1854)日米和親条約、日露和親条約と続けて天皇の勅許なしに徳川幕府は締結してしまう。外国を嫌い、攘夷論を推す孝明天皇の「皇祖に申し訳たたず退位する」という言葉に呼応する形で攘夷論と尊王論はひとつになり、政局の中心は京へと移行、尊王攘夷派志士たちは一挙に倒幕運動へと傾倒してゆく。
当時、徳川幕府は将軍継嗣問題、外交条約調印で政局が割れていた。大老に就任した井伊直弼はこれらを強行採決し、反勢力への弾圧が対抗策として施行され、小浜藩士・梅田雲濱、鷹司家の小林良典、頼山陽の三男・頼三樹三郎、長州の吉田松陰ら多くの有能なる学識者が次々とその対象として捕縛されるに至った。その総数は百五十余人に及び、大部分が江戸送りとなり、斬首もしくは流罪と厳罰を受けた。この大弾圧は全国の尊王攘夷派を激昂させる結果となり、「違勅の元凶 井伊を葬れ」とついに井伊大老は、安政6年(1860)3月登城途中、江戸城桜田門で水戸藩浪士に襲撃を受け殺害される。
この事件を期に徳川幕府は終焉へと加速、明治維新へと大きく時代は流れてゆくのではあるが、憂国の赤誠もむなしく維新の鴻業の礎石となった殉難者のその損失は計り知れない。(京都霊山護国神社にある梅田雲浜の碑) |