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田中芳男は、幕末から明治期の博物・物産学者、農務官僚。天保9年(1838)、信濃国飯田(現・長野県飯田市)に医師田中隆三(如水)の3男として生まれる。
安政4年(1857)伊藤圭介に入門、ここで医学・蘭学・本草学を学ぶ。文久元年(1861)芳男は圭介に従い、幕府の洋学研究機関「蕃書調所」(ばんしょしらべしょ)の一施設「物産所」勤務のため江戸に出る。慶応3年(1867)、パリ万国博覧会に赴き、ジャルダン・デ・プラント(フランス国立自然史博物館)を日本の自然史博物館の理想とした。
明治3年、芳男は、町田久成とともに大学南校に開局した物産局(文部省博物局の前身)で働く。ここでわが国の博物館創設のために尽力し、後の東京国立博物館、国立科学博物館、東京都恩賜上野動物園の基盤を築いた。明治4年、芳男の主唱により招魂社(靖国神社)で開かれた「大学南校物産会」は、近代博覧会の嚆矢として画期的な事業である。また芳男は、明治6年と9年には、明治政府からウィーンとフィラデルフィアの万国博覧会に派遣され、日本と西洋との文化交流にも大きな役割を果たした。
明治15年の上野博物館開館の後、芳男は博覧会事業に重きを置き、日本初の産業博物館、神宮農業館の創設、また農会・水産会・山林会の会頭を務めるなど農林水産業の振興に貢献した。
大正4年、男爵を授けられ、翌5年6月22日、本郷の自宅にて没する。享年77歳。墓石の正面に「従二位勲一等男爵田中芳男墓とあり、裏面に略歴が刻まれる。」
田中芳男墓は、平成9年台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登録された。 |
このホームページを拝見して、田中芳男という人物が日本の博物学の草分けであることがわかりました。つきましては、このホームページの文章をそのまま「小笠原野生生物研究会」というNPOのニュースレターに引用させていただきたいのですが、いかがでしょうか?このホームページの題名とアドレスも明記いたします。今後は当研究会のHPにも掲載させていただくことにもなります。お認めいただけるのでしたら、メールでお知らせいただければ幸いです。NPO小笠原野生生物研究会 ニュースレター編集担当 上條明弘
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