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<石川啄木最後の歌>
呼吸すれば、
胸の中に鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
眼閉づれど
心にうかぶ何もなし
さびしくもまた眼をあけるかな |
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明治44年(1911)8月7日、石川啄木は小石川区久堅町74番地(この建物の右隣)に引っ越す。この年の2月以来闘病生活を余儀なくされたが、歌作は続けていた。病状は(結核性のもの)は回復の兆しも見せており、引っ越ししてからも、17首を作って前田夕暮の雑誌『詩歌』9月号に寄稿している。
しかし、一家の窮迫を見かねた父一禎が家出し、小樽に住む次女トラとその夫山本千三郎の家へ向かってしまう。9月3日のことだった。これを悲しんでいた啄木に、さらにショックな事件が起こる。
9月10日ころ、親友中の親友として頼りにしていた宮崎郁雨と妻節子にいわゆる「不愉快な事件」が起こり、啄木は郁雨と義絶する。この事件が啄木に致命的な打撃を与え、神経衰弱となり、病状も悪化してしまう。
これらの打撃は啄木から歌作の気力をも奪い去ってしまう。歌が湧き出て3日で254首も作り、自分の意のままになるのは「この机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置と、それから歌ぐらゐなものである」と言っていた啄木が歌作をやめてしまう。
明けて明治45年(1912)正月、函館の岩崎正宛年賀状にようやく哀しい歌を1首書き添えるが、啄木の病状は悪くなる一方だった。2月中旬、歌はおろか日記さえも書けなくなった啄木に、土岐哀果から歌集『黄昏に』が送られてくる。扉の次の一枚には「この小著の一冊をとって、友、石川啄木の卓上におく。」と印刷されていた。啄木は親友の歌集を読んで最後の創作意欲をかき立てられる。そこで相馬屋製の原稿用紙に書きつけたのが、このたび碑になった二首です。呼吸の際に気管から聞こえる異音に寂しさを感じさせるさま、死に直面した絶望の境地が詠まれている。
ドイツでは作曲家や詩人の最後の作品を「白鳥の歌」というが、碑に刻まれたこの二首はまさに啄木の「白鳥の歌」となった。(説明文より引用) |
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上2枚の画像は、石川啄木顕彰室ができる前のもの。下の解説もその時に掲げられていたものです。
石川啄木(1885〜1912)は本名を一といい、岩手県玉山村日戸常光寺に生まれた。はじめ明星派の浪漫主義詩人として出発、小学校代用教員となり、北海道に渡って地方新聞の記者になったが、作家を志望して上京、朝日新聞に勤務しながら創作活動を続けた。大逆事件に遭遇し幸徳秋水らの思想を知り、社会主義の立場にたつようになった。『時代閉塞の現状』で自然主義を批判、詩集『呼子と口笛』、歌集『一握の砂』などの作品を残し、貧窮のなかで病歿(肺結核)した。(母は前月に死去している)
明治44年(1911年)8月7日、本郷弓町の喜乃床の2階からこの地の借家に移り、翌年4月13日逝去まで居住した。間取りは玄関2畳と4.5畳と8畳(又は6畳)と台所であったといい、移転時には既に病床にあって、文学的活動はなかったという。
都内の啄木の遺跡としては『スバル』の編集所でもあった文京区本郷森川町の蓋平舘、本郷弓町の喜乃床など下宿した家もあるが、この地は啄木終焉の地として指定した |