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高橋至時 (よしとき)の墓。角石の墓碑正面に、「東岡高橋君之墓」と隷書で刻み、三面には、尾藤二州の撰文を刻む。東岡は至時の号である。
至時は江戸時代中期の暦学者。明和元年(1764)11月、大坂御蔵番同心、高橋元亮の子として生まれる。名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。15歳で父の職を継ぐ。生来、数学・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。ついで、当時の天文学界の第一人者、麻田剛立の門に入って学ぶ。
寛政7年(1795)、改暦の議が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、同9年「寛政歴」をつくる。
一方、伊能忠敬が幕命により、実測地図を作成する際には、測量を指導し完成させた。その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。文化元年(1804)1月5日、41歳で肺患のため没した。著書に「赤道日食法」等がある。 |
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