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吉田松陰は天保元年(1830)8月4日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた。安政元年(1854)3月師の佐久間象山のすすめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。
「かくすればかくなるものと知りながらやまぬやまれぬ大和魂」
同年9月まで約6ヶ月間伝馬町獄に留置されいたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業である。薫陶を受けた著名な士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。
わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三つであるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。
後、松蔭は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年(1859)7月9日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取り調べで死刑を覚悟した10月22日に父。叔父、兄へ宛永訣の書を送っているがその中にあるのが
親思う 心にまさる 親ごころ けふのおとづれ 何と聞くらん |
の一首である。
「松陰先生終焉之地」の石碑の裏側には「萩城址の東麓宮ア八幡宮の附近より掘り出した石」と彫られている。 |
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また処刑の時の近づいたのを知って10月25日より26日の黄昏までかかって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。
松蔭はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが20年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松蔭魂の指南書ともいえるものである。
安政6年(1859)10月27日は処刑の日であった。揚屋を出る松蔭は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年30歳。
伝馬町獄、正式には伝馬町牢屋敷の跡地は「十思小学校」、「十思公園」という小公園、「大安楽寺」等になった。吉田松蔭には明治22年(1889)2月11日、正四位が贈位され昭和14年(1939)年6月に「十思小学校」校庭に留魂碑が建設された。戦後、その碑は「十思公園」に移されて現在見る形になっている。
<留魂碑の冒頭>
身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 |
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<伝馬町牢屋敷跡>
大安楽寺、村雲別院(現在は日蓮宗村雲山瑞法光寺として取手市に移転。跡地はビルになっている)、身延別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡である。
牢屋敷は、慶長の頃常盤橋際より移り、明治8年(1875)5月市ヶ谷因獄(牢獄・牢屋)が出来るまで存した。幕末の時、牢屋敷頭に大番衆石出帯刀(いしでたてわき)、御たく場役(処刑場役のことで、たくの字は旧漢字で、偏は木、旁は豕の左側に斜め線を付ける。意味は打つ、たたく)に山田浅右衛門がつとめた。当時勤王の志士96名が処刑されている。
吉田松陰は、伝馬町牢屋敷模型の上画像左側の列の建物の中で、下画像右側から3番目の牢「西の奥揚屋(おくあがりや)」に入れられていた。橋本左内もこの伝馬町牢屋敷に入牢していたが、東の奥揚屋にいたので会うことは出来なかった。橋本左内は吉田松陰より先立ち10月7日に処刑されている。(牢屋敷模型の画像はHさん提供) |
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<伝馬町牢屋敷跡遺跡>
江戸時代、この地には牢屋敷があった。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていた。この地に移転したのは慶長18年(1618)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷があった。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊された。
平成24年(2012)、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会がs「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施した。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見された。
牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の高い塀で囲まれていたようだが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかった。これは、角度によって門が見えにくい「埋門」と言われる。城などによく用いられた施設と推測される。
このほか、多数の上水木樋が見つかっている。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われる。ここに展示してあるのは、出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではないが、同じく牢屋敷から出土した石を使って積んだものもある。石は伊豆周辺で切り出された主に安山岩が四角錐に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪が見られるものもある。(牢屋敷跡遺跡の上段の写真は展示写真引用、下段の2枚の写真は復元されたものを管理人が撮影する) |
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江戸伝馬町牢石垣の一部、井戸跡。 |
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十思公園の周りにある伝馬町牢屋敷関係の跡地。 |