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太田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称した。寛延2年(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任した。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮した。
明和4年(1767)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆した。文化9年(1812)に当地に移り住み、文政6年(1823)に没するまで過ごしている。
同じ案内板には、岩崎彌之助邸跡の説明も併記されているので、それを下記に記載する。
<岩崎彌之助 邸跡>
岩崎彌之助は嘉永4年(1851)土佐国に生まれ、明治7年(1874)後藤象二郎 の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住んだ。明治18年(1885)に三菱第二代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地においた。彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行った。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画した。彌之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体とした静嘉堂文庫を当地で設立し、東洋固有の文化財の収集を行った。この歴史案内板の煉瓦は岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を保存・再利用したものです。
下の画像と説明文は、数年前に撮ったものです。 |
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狂歌で名高い蜀山人は、文化9年(1812)ここに移り住み、文政6年(1823)ここで歿した。蜀山人は、江戸時代の戯作者で筆名が蜀山人、本名は大田覃という。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)、蜀山人が狂歌三大家といわれている。
御茶ノ水駅を出て聖橋のたもとに「淡路坂」の道標がある。その道標の反対側(右手)に小さな表示板がある。注意して行かないと見落としてしまう。
生き過ぎて
七十五年食ひつぶし
限りしられぬ天地の恩 |
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