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文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御魂の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく小塚原回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同11年、福原乙之進を埋葬した。
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫冶良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。
明治8年(1875)、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年(1904)、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年(1909)、遺言により野村靖を埋葬。明治44年(1911)、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年(1958)松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。 |
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