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<橋本景岳先生の生涯と墓所の由来>
橋本景岳先生は、天保5年(1834)3月11日、福井藩の藩医橋本長綱の長男として生れ、名を綱紀、通称を左内、号を景岳(けいがく)又は藜園(れいえん)といった。幼少の時から学問を好み、やがて藩儒の吉田東篁(とうこう)について儒学を学び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿について蘭学を修め、その見識は当時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。
有名な「啓発録」(けいはつろく)は、嘉永元年、15歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物思想は、すでにこの著書の中に示されている。嘉永6年のペルリ来航以来、わが国は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立っていたので、この俊秀なる青年を抜擢してその側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽囚の身となり、翌6年10月7日、江戸傳馬町の獄内において死刑に処せられて、26歳の短かい生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。
先生刑死の日、同藩の長谷部恕連(よしつら)は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、幕吏は刑人の墓を建ててはならないといって、これを許さなかったので、改めて「藜園墓」の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許されたので、文久3年(1863)5月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の 橋本家墓所に改葬されたが、明治26年(1893)、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして再建され、さらに昭和8年(1933)、破損の甚しくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が設けられて今日に至った。
套堂の向って右に聳えている巨碑「橋本景岳之碑」は、明治18年(1885)、先生と親交のあった福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の友人重野成齋の作により、巌谷修が書し、三條実美が篆額したものである。 昭和49年10月 景岳會 |
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「橋本景岳先生の生涯と墓所の由来」の碑文 |
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