|
|
|
|
|
|
明治時代の著名な思想家、美術家、美術評論家。東京開成所(現・東京大学)に入り、政治学・理財学を学んだ。同校のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの全国の古美術調査、美術品収集を手伝う。
その後、東京美術学校(現・東京芸術大学)の設立に携わり、日本美術院の創設者でもある。文久2年(1863)〜大正2年(1913)享年51歳。横浜生まれとする説が一般的である。 |
|
|
|
|
|
「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ分っている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである」(富原芳彰訳/『東洋の理想』)
<Asia is one>
『東洋の理想』の冒頭に掲げられた"Asia is one."(「アジアは一つである」)の言葉は、天心の思想を語るうえで欠かせない。しかし、この言葉は後に大東亜共栄圏を支える政治的なスローガンとして利用されることにもなった。しかし、天心がこの言葉に込めた意味は木下長広によると少々異なっている。木下によれば、――日本の文化とその歴史は、西アジアから東アジアへかけての「アジア」全域の文化遺産をその奥深くに受けとめ、それを醸成するように成立している、その意味で、日本文化のありかたのうちにアジアは混然として大きな「一つ」を形成している――ということだった。近代日本がとかく西洋対日本という図式で考えられるのとは異なり、天心はアジア総体のありかたの中で日本を捉えようとしていた。天心の投げかけた課題は、さまざまな形で現代の我々にも引き継がれている。(京都大学文学部 日本哲学史研究室より) |
|