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身禄行者(寛文11年〜享保18年・1671〜1733)は、食行行者ともいい、江戸庶民を中心にさかえた富士信仰の中興の祖として知られた人。
庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五勺の烏帽子岩近くの石室で断食入定(食を断って死ぬこと)した身禄の教えは、広く庶民の信仰をあつめた。身禄行者の骨が分骨埋葬されたといわれる墓の墓碑は、富士山をかたどった溶岩の山上に建てられている。左にある「参食行身禄狗」とある小さな墓は初めの墓である。
ちなみに富士信仰は「富士講」として組織され、江戸市中の寺社境内に「小富士」が築かれた。区内にある「富士神社」は今に残る富士信仰の史跡である。さとういくお |
かなり以前、新田次郎の「富士に死す」などで身禄さんのことを確認しました。子供のころから、元祖室にもよくお参りし、確か私が出入りしていた山室にも身禄さんに関係するものがあったと思います。上記は、生まれ故郷、富士北麓のブログですが、お立ち寄りください。お山さんのシーズン入りまでは、特に富士山について記事にする予定です。本日は、貴重な情報をありがとうございました。 |
私が母から聞いたことによると、身録山を立てたのは、現在、名古屋にある明治村の旧帝国ホテルの装飾を手がけた飾り職人で「大川啓次郎」が私財を投入して、富士山から牛車で溶岩を運ばせ建立したということです。
その後、海蔵寺に寄贈し、現在は文京区の重要文化財に指定されているようです。お寺の中に鳥居があり、お参りをするときには、拍手を打つべきなのか悩んでしまいます。ひ孫に当たる私としては、年末に、しばらくぶりのお参りをしてご先祖様に手を合わせ、また、身録山にお参りし、壊れていた鳥居が新しくなり、どちら様か分かりませんが、大変感謝しております。高橋義則 |
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