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松平定信(1758〜1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白川藩主となり白河楽翁を号していた。天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本、御家人などの借金救済)七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。
また、朱子学者でもあり「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。下の画像は、松平定信の夫人の墓である。 |
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松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となった。定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めた。特に、七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。
明治には、東京府の公共事業に役立った。この霊巌寺にある墓は、昭和3年(1928)に国の史跡に指定された。 |
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松平定信の墓のある霊巌寺 |
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