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<将門首塚の由来>
今を去ること1050有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして板東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられてが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため、徳治2年、時宗二祖真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我が世の春を謳歌していたが、遠い板東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃(かんばつ)が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲(ここ)にその由来を塚前に記す。(将門塚保存会) |
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<将門首塚の碑>
昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆(せきとうば)は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
明治2年(1869)より第2次世界大戦まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示した。
<都旧跡 将門塚>
平安時代、天慶の乱(〜940)の中心人物、平将門にまつわる著名な伝説地。通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯籠は現地に保存されている。
嘉元年間(1303〜05)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。故跡保存碑は明治39年(1906)5月建立されたもので、裏面の阪谷芳郎撰文になる碑文は将門塚の由来を記している。
<酒井家上屋敷跡>
江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代荻」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。
<将門塚>
神田明神の祭神である東国の英雄・平将門の御首(みしるし)を祀ってある。平将門は、承平・天慶年間(931〜946)に活躍し、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行った。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けた。
またこの地は神田明神創建の地である。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭の時には同保存会の方々により担がれる。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われている。
<感想>
ここまでの文は平将門首塚に掲げられている説明文を引用した。どれも将門を慕う文言に満ちている。板東地方の人々の心情がよく表れていると思う。神田明神の祭神の中で3番目にあげられているのは京都(朝廷)への気兼ねだろうか。それと保身なのだろうか。 |
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将門の首塚の隣接地で大手町再開発事業が行われた。これにあわせて、数えて第6次目の改修工事が実施された。これからの時代にふさわしい新しい将門塚として発足した(令和3年(2021)4月) |