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土佐(高知県)中浜村の出身。14歳での出漁で遭難し、アメリカ船に助けられ米国に渡る。米国で航海術などを学ぶ。帰国後はその新知識と英語力で重用された。土佐藩の藩校「教授館」の教授に任命されている。日米和親条約の締結に尽力し、通訳としても活躍した。文政10年(1827)〜明治31年(1898) |
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<漂流、漁師から武士へ>
文政10年幡多郡中ノ浜(現・土佐清水市)の漁師の次男として生まれる。天保12年(1841)15歳のとき出漁して漂流し、アメリカの捕鯨船に救助され渡米した。ホイット・フィールド船長の居住地ヘヤーヘブンでは、ジョン・マン(JOHN MAN)を名乗り、英語・数学・航海・測量術など新しい知識を学んだ。
26歳の時、(ペリー来航の前年)帰郷し、嘉永6年(1853)幕府の普請役格に取り立てられ活躍した。万延元年(1860)米遣使節の通訳として、咸臨丸でアメリカに渡り大役を果たした。明治31年(1898)11月15日没。享年72歳。 |
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