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小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれている。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地だった。
日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していた。
小塚原の刑場では、火罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われた。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施された。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもあった。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていた。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向印は顕彰、記念の地となっていった。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となった。
また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものである。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えている。 |
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<鼠小僧次郎吉の墓>
鼠小僧次郎吉の本来の墓は墨田区の回向院にある。小塚原刑場で処刑され、回向院に葬られたが、この墓石は義賊に恩義を受けた人々が建てたと言われている。鼠小僧次郎吉は、大名屋敷で盗みを行い、貧しい人達へ配ったという話が残っている。 |
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<片岡直次郎の墓>
直侍と呼ばれた江戸後期の小悪党。詐欺と恐喝の常習犯で、お墓は遊女(三千歳)が建てている。 |
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<高橋お伝の墓>
やくざ者(小川市太郎)に金貸しの約束を反故にされた為、喉を剃刀で切って殺害した。明治12年(1879)死刑(斬首刑)に処せられた。なお、翌年から斬首刑は廃止されたので、最後の斬首刑ということになった。 |
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<腕の喜三郎の墓>
江戸時代の侠客で、喧嘩で深手を負った自分の片腕が見苦しいと、子分に鋸で切り落とさせた。墓石の形からこれが墓?かと思ってしまう。 |
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<橋本左内の墓>
政治犯であった橋本左内は、伝馬町牢屋敷で処刑され、罪人として回向院に葬られた。斬首された左内の遺骨は、菩提寺である善慶寺(福井市)へ改葬されが、善慶寺は、空襲で全焼してしまう。 |
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<吉田松陰の墓石>
高杉晋作らによって世田谷区若林に改葬され、その地に松陰神社が建立されたので、ここには当時の墓石だけが文化財として保存されている。 |
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上左画像は橋本左内の碑だが風化して解読できない状態。上右画像は墓の配置図。 |