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<近藤勇と新選組隊士供養塔>
慶応4年(1868)4月25日、新撰組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑された。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬された。
本供養塔は、没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人とり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立された。高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり碑文がみられる。
正面には、「近藤 勇 宜昌 土方歳三 義豊 之墓」 と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されている。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜(まさよし)が宜昌とされていることについては明らかになっていない。
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計110名の隊士などの名前が刻まれている。
裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衞 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていたが、一部は現在判りにくくなっている。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉だが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられている。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行の際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
東京都北区指定有形文化財(歴史資料) 寿徳寺境外墓地 |
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