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石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。
その事績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。これによると、吉胤は千葉市一族で、遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(1592〜96)本木に移って土地開発をし、慶長3年(1598)には掃部宿に移住して開拓に当たったという。元和2年(1616)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長2qの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。
なた『南足立郡誌』(大正5年版)には、大永2年(1522)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正18年(1590)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和4年6月22日に97歳(数え年)で没したと記述している。大正5年(1916)、従五位を追贈された。
石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長15年に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は、後年子孫が建立したものである。昭和58年12月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。 |
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