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明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治17年(1884)第2回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。
芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治明治21年(1888)、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の明治21年(1888)11月、61歳で没した。
墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治20年(1887)没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年(1917)造立)が建つ。
平成5年(1993)、台東区史跡として区民文化財台帳に登録された。 |
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