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樋口一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年(1872)東京府内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。一葉はこの家を懐かしみ”桜木の宿”と呼んだ。父の死後戸主になった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。
終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894)5月のことである。守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は六畳と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、”奇跡の二年”と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。
<樋口一葉夏子の碑>
花ははやく咲て散(ちり)がたはやかりけり あやにくに雨風のミつゞきたるに かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持参 いよいよ転居の事定まる
家は本郷の丸山福山町とて阿部邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり 守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成(なり)しとて さのみふるくもあらず 家賃は月三円也 たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)おもひ出すもわづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ
右一葉女史の明治二七年四月二八日五月一日の日記より筆跡を写"して記念とす
この文学碑は、昭和二十七年九月七日に建てられた。日記以外の表面の文字と裏面の文字は平塚らいてうの書。 裏面には、岡田八千代の撰文による一葉の業績の概要と興陽社社長笹田誠一氏の篤志によってこの碑が建てられことが記されている。
昭和二十七年八月上旬世話人、岡田八千代、平塚らいてう、幸田文、野田宇太郎 (日記文選定) 井形卓三 (文京区長) とある。
<一葉碑について> 野田宇太郎
樋口一葉が下谷龍泉寺町(大音寺前)から本郷丸山福山町に移ったのは明治27年(1894)5月1日であった。「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」その他一葉の名を後世にのこした名作小説がこの丸山福山町の家で書かれたように、一葉の本当の文学生活はその時から始まったと云ってもよい。
一葉が下谷竜泉寺町に移って小さな雑貨商を営むことになるまで住み、洗濯物とか縫い物などをしながら母たき、妹くにと共に細々と暮らしていたのは本郷菊坂町の長屋だったが、その忘れ難い菊坂町も程近い丸山福山町に移ったことは、偶然とは云え一葉にとっては故郷にでも戻る気持であったろう。
しかし、ようやく作家生活の希望にもえたのも束の間で、丸山福山町に落ち着いて1年もすぎた頃からは胸を患う身となり、明治29年(1896)11月23日には、もう此の世を去る結果となった。24歳の匂ほやかな処女のままあえなくも散ったのである。その家にはその後森田草平も住んで、小説「煤煙」のなかにもちょっと出て来る。しかし明治43年8月の颱風のために家は裏側の西片町(阿部屋敷)の崖崩れにあって遂に跡形もとどめぬようになった。
それ以来時は流れて、たまたま昭和27年(1952)に同地の所有者であった笹田誠一氏が一葉の生涯を永く後世に伝えたいとの念願から、同番地の一角に私費を投じて碑を建てることとなり、それは9月7日に竣工した。すでに石材を選んでいた笹田氏から刻文や碑面の配置などの相談を受けた私は、碑文に移転当時の日記を選び、旧青鞜社の人々をわずらわして撰文は岡田八千代女史により、揮亳は平塚らいてう女史によって閨秀作家一葉の終焉の地にふさわしい文学碑が、出現したのである。(文学碑パンフより) |
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