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高知生まれ。大蔵官僚、政党政治家。明治28年(1895)東京帝国大学法科(現・東京大学)を卒業し大蔵省入省。専売局長官・逓信次官・大蔵次官などを歴任する。その後、衆議院議員になり、加藤内閣:蔵相、若槻内閣:内相・蔵相を歴任する。昭和2年(1927)立憲民政党初代総裁。昭和6年(1931)内閣総理大臣となり、金解禁を断行、ロンドン海軍軍縮条約調印を行う。
激動の時代の政治家で「ライオン宰相」と呼ばれた。 |
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浜口雄幸首相といえば、東京駅で銃撃されたことが歴史的事件として記憶される。上画像がその現場です。
『昭和5年11月14日午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホ−ムを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民主党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものとされている。』(東京駅設置の説明板より引用)
<高知出身、最初の総理大臣>
明治3年4月1日高知県長岡郡五台山村(現・高知市五台山唐谷)で水口家に生まれる。明治22年(1889)高知県安芸郡田野村の浜口家の養子になる。明治28年(1895)東京帝大卒業後、大蔵省に入り要職を歴任、大正6年(1917)辞職して立憲同志会に入った。
昭和2年(1927)民政党初代総裁になり、昭和4年(1929)内閣総理大臣(土佐のライオン宰相)になった。日本の経済を建て直すため、軍備縮小や緊縮政策をとり金解禁を断行し、昭和5年(1930)東京駅で右翼の凶弾に撃たれ翌年死亡した。五代山に復元された生家がある。昭和6年(1931)8月26日没。享年62歳。 |
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