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泉岳寺には「忠臣蔵」であまりにも有名な播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩、正室・瑶泉院、大石内蔵助良雄以下の赤穂浪士の墓がある。墓所の手前には、吉良上野介の首を洗ったとされる「首荒い井戸」もある。
浅野長矩 |
風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん |
大石内蔵助良雄 |
あら楽し思ひは晴るる身は捨つる 浮き世の月にかかる雲なし |
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墓前にはいつも線香の煙が絶えることがなく、時代が変わっても日本人の心をとらえていることがわかる。泉岳寺は、曹洞宗の寺で、慶長17年に徳川家康が外桜田に創建し、寛永18年現在地に移転している。浅野氏の菩提寺である。 |
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赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義中央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に47士が結集して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15年(1702)12月14日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて公儀に裁きを求めた。
義士一同は、12月15日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の4家に預けられた。翌元禄16年2月4曰、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々4家に分けて葬られた。
(遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜剱信士(萓野三平)の墓は供養塔で在る。) |