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昭和11年(1936)2月26日、2・26事件は起きた。青年将校達のクーデターである。2日後の28日に「反乱軍は原隊に帰れ」との命令が出され、戒厳司令部は「兵に告ぐ」というビラを撒いた。
『今からでも遅くないから原隊へ帰れ。抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。』
事件後、中心となった2人の「大尉」は自決、首謀者と見なされた将校たち19人は、軍法会議で死刑となった。7月12日、処刑。
処刑された将校たちの遺骨は、当時国家に反逆した者は、埋葬や法要が行えなかったため、遺骨の引き取りをどの寺も断っていた。その中で、首謀者とされた栗原中尉の父が、佐賀県出身だったことから、佐賀・鍋島藩の菩提寺であった「賢崇寺」に相談をして実現した経緯がある。
合同慰霊祭は、7月12日の死刑を執行された日から数えて百か日となる10月19日に法要が行われた。
なお、二十二士とは自決将校2名、決起部隊将校17名、事件関与死刑者2名、そして二・二六事件とは直接関係ないが、ほぼ同時期に死刑が執行された相澤三郎中佐が眠っていることに由来する。
賢崇寺では、毎年2月26日と7月12日に合同慰霊祭が行われている。現在の墓碑(画像)は、昭和27年(1952)7月12日第17回忌法要に合わせて「二十二士之墓」として立てられた。 |
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