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<西郷隆盛終焉の地> 「晋(しん)どん、もうここらでよか」
−波乱の道、ここに尽きる−
ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜いた。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされた。「晋どん、もうここらでよか。」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされた。明治10年(1877)9月24日のことです。西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強力な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7ヶ月もつづいた「西南の役」が終わったのです。
熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散。西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳(えのだけ)を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。岩崎谷の銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したということです。 |
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<西郷隆盛洞窟> 「おはんらにやった命」
ー西南戦争最後の司令部ー
明治10年(1877)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まった。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は何重もの柵を回らし、その数4万。死を決した西郷は夜明けを待って、5日間すごした洞窟を出た。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立たちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯(へごおび)。ゆっくりと岩崎谷を下る。その時流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じた。
西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」といいう西郷の一言でした。2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器のまえに敗退。7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えた。 |
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