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幕末、王政復古の運動を推進した長州藩が、文久3年(1863)8月18日の政変のため、三条実美以下七卿と共に京都を脱出し、しばらく本国に退いた。このとき筑後水天宮神官真木和泉守始め尊皇攘夷の志士たちは、長州藩の京都回復運動に同調し、清側義軍を編成して元治元年(1864)夏、長州藩兵と共に上京し、ここ山崎に布陣した。その強硬な上京軍に対し、幕府側はついにこれを追討することを決したが、先に上京軍は伏見・天竜寺及び山崎の三方から進撃を開始した。かくて御所の幕府軍との間に激しい戦いが展開されたが、上京軍は蛤御門・堺町御門において敗れ、退却を余儀なくされた。この山崎に退いて長州藩主力兵の国元引き揚げを見送った真木以下十七名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた。
その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺等の社寺や、民家二百余戸を焼失したが、やがて烈士たちの念願が成って明治維新を迎えるに至った。かくして、十七烈士は現位置に改葬され、永遠の眠りについたのである。今日、その志を忍び人々の手によって毎年10月21日、墓前祭が挙行されている。
十七烈士の墓は、天王山頂に登る途中にある。 |
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