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医学博士、文学博士、鴎外の号をもって名高い。森林太郎は、6歳より藩校養老館に学び、11歳の時上京。明治14年20歳で東大医学部卒業後陸軍々医に任ぜられた。明治17年ドイツに留学すること5年、衛生学、文学、哲学、美学を研究して帰朝、後累進して軍医総監となった。後に帝国博物館長、帝国美術院長等となった。(観光案内図より引用、森鴎外の生家と同文)
森鴎外の墓は、永明寺の木立に囲まれた一角にあり、「森林太郎墓」と刻まれている。本名を林太郎という。森家は代々津和野藩主亀井家の典医だった。鴎外の墓は、東京三鷹の禅林寺にもある。そこの墓石にも「森林太郎」と刻まれている。 |
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<遺言>
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切打チ切ル重大事件ナリ如何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容赦ヲモ許サズ
大正十一年七月六日 森林太郎 言 |
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