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木曽義仲こと源義仲は、源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。
後白河天皇の第三皇子以仁王(もちひとおう)の令旨によって、治承4年(1180)、信濃の国で平氏討伐を賭けて挙兵する。寿永2年(1183)、倶利伽羅(くりから)峠の戦いにで平氏の大軍を破り入京する。しかし、義仲軍による都での狼藉の悪評などで後白河法皇とは対立する。平氏との対決に加えて、源頼朝、義経兄弟との対立も表面化していった。その後、宇治川、瀬田の両戦いで源範頼、義経軍に敗北すると、ほどなく、この粟津の地で討ち死にしたとされている。
義仲は、粟津の地に葬られていたが、義仲の愛妾であった尼僧の巴御前が義仲を供養するため草庵を結ぶ。尼僧の死後、草庵は無名庵と呼ばれた。後にこれが義仲寺へと連なっていくことになる。 |
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