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広島県三次市(旧布野村)の人、アララギ派の歌人で、その作風は近代歌人中特異な存在であった。後年、病魔におかされ、昭和8年12月、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地療養した。この家で、時折、斎藤茂吉、土屋文明らにも見舞われ病と闘った憲吉も、昭和9年(1934)5月5日、娘たちの旅先から届いた絵はがきに機嫌よく笑ったりしていたが、急に息苦しくなり、看病の甲斐なく午後7時40分帰らぬ人となった。46才であった。
家は少し高い所にあり、尾道水道や尾道の町並みが見渡せる。憲吉もこの景色を眺めていたのだろう。
千光寺に夜もすがらなる時の鐘
耳にまぢかく寝(い)ねがてにける
岩かげの光る潮より風は吹き
幽(かす)かに聞けば新妻のこゑ (新婚当時、夫人の郷里、鞆での作)
秋浅き木(こ)の下道を少女(おとめ)らは
おほむねかろく靴ふみ来るも (上京後、3年目、お茶の水での作)
おく山の馬棚戸(ませど)にくれば霧ふかし
いまだ咲きたる合歓(ねむ)の淡紅(うす)はな (郷里布野での作)
病むわれに妻が屠蘇(とそ)酒をもて来れば
たまゆら嬉し新年にして
病む室の窓の枯木の桜さへ
枝つやづきて春はせまりぬ |
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