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 <墓地や終焉の地を巡る写真紀行

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モラエスの墓 潮音寺   徳島県徳島市
モラエスの墓
コハルの墓 おヨネの墓
モラエスの墓
 ポルトガルの海軍士官にして外交官で日本文化を西洋に紹介した文筆家のモラエスは晩年に隠棲した徳島市眉山の麓で、愛し夭折した二人の女性と共に眠っている。
 モラエス、おヨネ、コハルの墓所は徳島市西山手町に位置する潮音寺にある。徳島駅から西へ徒歩10分ほどの行程、眉山の麓、阿波踊り会館の直ぐ北にある。
墓所
 最初におヨネの墓が、ついで隣にコハルの墓が作られ、モラエス死去後、遺言にしたがって、これにモラエスの遺骨がおさめられた。
 昭和20年の空襲で焼けただれ、傷みも激しくなってきたので、モラエス没後64年の、平成5年(1993)に、墓地の北側に墓を移設し、モラエスの墓所として整備し、墓前で法要が営まれた。
 墓は西向きで眉山を望み、中央にモラエス、右におヨネ、左にコハルの墓が一列に並んでいて、前面に灯篭2基が設置されている。
モラエスの墓(1段目画像)
  昭和4年(1929)7月1日、75歳でモラエスが死去。遺言とおり、コハルの墓に納骨された。後に、墓石は、裏面に、「ウエンスラウ、モラエスの墓」と刻まれ、回転して、正面側から参拝できるようにした。
 平成5年の改修の際に、新しく、大理石の墓石を使用して「ウエンスラウ、モラエスの墓」として建てられた。
 以前の墓は左にコハルの墓として建てられている。裏面の「ウエンスラウ、モラエスの墓」の文字はそのまま残っているが、壁際であるので判読しにくい。
おヨネの墓(2段目右画像)
 おヨネが心臓の病で6年の闘病後、神戸で大正元年(1912)8月に死去した後、モラエスが建てたものである。墓石には法喜蓮照信女の戒名が刻まれている。故郷徳島の姉、斎藤ユキに相当の金を渡し、ユキは斎藤家の菩提寺近くの潮音寺で売り出されていた墓所の一角を購入し立派な墓を建てた。
 後日、墓参り法要時に、自分が死んだら、おヨネの墓に葬ってほしい希望をするも外国人であるゆえ、近親者から同意をえられなかった。
コハルの墓(2段目左画像)
 大正5年(1916)10月2日、結核でコハルが死去後、モラエスがおヨネの墓の隣にコハルの墓を建てた。11月14日に完成し納骨された。この時、母親のユキに自身の遺骨をおさめることの打診をし、後日、了承された。
モラエス忌
 モラエスの事績を顕彰して三回忌法要が昭和6年(1931)7月1日に安住寺で盛大に行われた。以後、モラエス忌として、1945年を除いて実施されており平成30年(2018)に90回忌法要が墓所前で行われた。
<墓所の解説板には各墓塔ごとに以下のように説明されている。>
 ●モラエス翁の墓
 ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソウザ・モラエスは1854年5月30日、ポルトガルの首都リスボンで生まれ、海軍兵学校卒、海軍中佐。
 1899年9月に神戸及び大阪駐在の初代領事となる。
1913年その職を辞して亡妻ヨネの故郷である徳島に隠棲、ヨネの姪コハルと共に純日本的生活に浸りながら文筆に親しんだ。
1916年10月同女とも死別の後は、両人の墓参りに孤独の余生を送り1929年(昭和4年)7月1日に逝去した。
 著書には「極東遊記」「大日本」「茶の湯」「日本通信」「徳島の盆踊り」「おヨネとコハル」「日本史瞥見」「日本精神」などがあり、故郷を偲びながらも日本の生活をこよなく愛し、当時の日本を正しく海外に紹介した。
おヨネの墓
 福本ヨネは、モラエスの神戸時代、13年近く生活を共にした徳島生まれの女性。コハルの母・斎藤ユキの妹である。
 阪神地方で芸者をしていた当時、ポルトガル初代神戸大阪領事だったモラエスと知り合い、純日本式の結婚式を挙げたと伝えられている。
モラエス46歳、ヨネ25歳の時であった。
 1912年(大正)元年8月20日、心臓病にて死去、享年38歳。
モラエスの生涯を通じ最愛の女性であり、彼女への追慕に生きるために彼に徳島移住を決意させた墓である。
 モラエスが建てた当初は、三段組、塔籠、玉垣のついた立派なものであったが、移転のため他の墓と同じ構造に調整したものである
【8月30日に死去とあるが、8月20日が正しいはず。観光協会に問い正したい】
コハルの墓
 コハルの結核の悪化、古川病院のへの入院とモラエスの熱心な看病、そして最後の様子は彼の名著、「おヨネとコハル」の第1章に詳しく書かれている。
 この墓の作られた日も、コハルの死から44日目の11月14日と記されている。それから3年後の彼の遺言によって死後、このコハルの墓の裏面に単純に「ウエンセスラウ、モラエス」とだけ彫って彼の墓碑とし、コハルと共に永眠することが出来た。
 この墓も戦火で焼かれ、二度三度と移設されたので損傷が激しいので1993年、新しくポルトガルの大理石で作られたモラエスの墓とともに並べ、ここに建てられたものである。
潮音寺 潮音寺
 潮音寺の外観。寺といっても、本堂とか庫裏はなく、庭や樹木もなく、平板な墓地と墓参りにやってくる人々の休憩所会所があるのみで、風情の乏しい印象を受ける。
 過去に官寺であったこともある古い寺であるが、過去何回かの津波と空襲で昔の面影をかたるものはない。
(画像と解説文は I・H さんの提供)
墓地・終焉の地
赤穂浪士 織田信長 織田信孝 梅田雲浜 沖田総司
榎本武揚 於大 伊能忠敬 伊豆長八 太田道灌
石出掃部亮吉胤 岡村昭彦 大隈重信 芥川龍之介 石川啄木
岡倉天心 岡本綺堂 大久保利通 緒方竹虎 石原裕次郎
尾ア士郎 上田秋成 青木昆陽 明智光秀 足利尊氏
伊藤仁斎 池 大雅 池禅尼 緒方洪庵 一色刑部
今川義元 小栗忠順 鬼あざみ清吉 泉鏡花 井伊氏歴代墓所
井伊直虎 井伊家武将 小川啓三・幸子 お牧の方 今川長得
石井漂香 歌川豊国 小栗判官 板割浅太郎 有無両縁塔
浮田幸吉
春日の局 桂小五郎 祇王 葛飾北斎 紀伊国屋文左衛門
清河八郎 木村重成 上山草人・山川浦路 黒田清隆 加藤友三郎
小村壽太郎 後藤新平 紀州徳川家 狩野芳崖 蒲生君平
吉良仁吉 吉三郎 グラバー家 木地師墓石群 古泉千樫
久野久子 小泉八雲 こうもり安 近藤勇 鎌田政家
金子みすゞ 窪田空穂 栗崎道有 木曽義仲 カール・ゴッチ
坂本龍馬 佐久間象山 寂光土 彰義隊 薩摩浄雲
曾我兄弟 司馬江漢 蜀山人 島田虎之助 三条実美
杉浦重剛 三遊亭円朝 佐藤春夫 斎藤茂吉 志賀直哉
鹿都部真顔 清水次郎長 清水一学 斎藤鶴磯 千姫
角倉了以 十七烈士 蘇我入鹿 雪舟 沢宣嘉
榊原鍵吉 西郷隆盛 佐賀藩鍋島家 サトウハチロー 島村抱月
酒井抱一 坂上田村麻呂 島崎藤村 島崎正樹 白井鐵造
鈴木梅太郎
豊臣秀吉 豊臣秀次 遠山金四郎 太宰春台 寺田屋殉難九烈士
田沼意次 千葉周作 平 将門 高村光太郎 田中芳男
高島鞆之助 忠犬ハチ公 田中久重 高峰譲吉 孝子
谷 文晁 高橋至時 武市瑞山 信玄塚 辰巳屋惣兵衛
築山御前 天誅組 長州藩士の墓 徳川信康 竹久夢二
桃中軒雲右衛門 巴御前 豊田佐吉
中岡慎太郎 二宮尊徳 乃木希典 那須与一宗高 中原悌二郎
新田義貞 中村憲吉 永井 隆 二・二六事件 永井荷風
夏目漱石 鼠小僧次郎吉 中濱(ジョン)万次郎 永井尚政 長沼国郷
長沼活然齋
幡随院長兵衛 林芙美子 樋口一葉(終焉地) 浜口雄幸 北条時政
本阿弥光悦 保科正重 比企能員 羽仁もと子 間 新六
福田半香 弘田龍太郎 平野国臣 藤沢敵御方供養塔 橋本左内
英一蝶
松尾芭蕉 向井去来 松平定信 松本幸四郎 身禄行者
明珍本家 源 頼朝 松本楓湖 源 範頼 源 頼家
万平塚 毛利家 森 鴎外 源 清麿 源 義朝
松平康俊 森の石松 村山知義 三浦梧楼 モラエス
武蔵石寿 間宮林蔵 飯盛女 松前藩主墓所new
山岡鉄舟 八百屋於七 山本勘助 山路愛山 山縣有朋
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