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文久3年(1863)8月、土佐の吉村寅太郎、三河の松本謙三郎、備前の藤本鉄石等は、明治天皇の前侍従中山忠光を盟主に立て、京都東山の方広寺に集まり倒幕のための挙兵をおこなった。
14日京都を発ち、千早峠を越えて当時幕府の直轄地であった五條に入った。17日、天誅組志士30人は一斉に挙兵し、五條代官所を襲い代官鈴木源内を殺害した。しかし、倒幕の戦いは敗れて幕軍の追討を受けることになった。
志士たちは吉野山間を転戦し、同年9月24日〜27日東吉野村にて戦死した。東吉野村には、「天誅組湯ノ谷墓所」や「天誅組明治谷墓所」など至る所に天誅組の墓所や、「天誅義士記念碑」が建てられている。
天誅組総裁藤本鉄石(備前)は、同志中最年長(47歳)で昼は一心に絵を描いて生活費を、夜は志士と会合して回天の策をめぐらすという二重生活だった。天誅組に加わった後、奮闘するも敗走の途中戦死した。
松本謙三郎(天誅組副総裁:三河刈谷)は、18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右眼をも失い自刃した。
過激な尊攘派で知られる公卿中山忠光は、血路を開き大阪から海路長州へと逃れたが、元治元年(1864)11月、潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され20歳の短い人生を終えた。
天誅組は討幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅した。 |
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<吉村寅太郎の墓>
吉村寅太郎は、土佐藩の間崎滄浪らについて文武を学び、その成績極めて優秀にして、他の浪士たちより容姿端麗、同志間ではひときわ目立つ存在であったといわれる。「おくに」という娘との清純な恋愛を通じ、ひととき青年としての喜びを感じた。9月27日、傷を負い敗走中、大和鷲家口で藤堂藩兵に囲まれ、もはやこれまでと「吉野山風に乱るゝもみじ葉はわが打つ大刀の血けむりと見よ」と辞世を残し、銃弾を受ける。享年27歳。 |
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