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信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正10年(1582)6月2日早朝のことだった。本能寺の変である。その頃の本能寺は、四条洞院(とういん)にあり、四町四面の広大な寺域、周囲に掘と土塁、その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎(うまや)を備えるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。
この大伽藍が烏有に帰し、光秀の天下もわずか十数日で終わったあと、信長の三男信孝は信長らの燼骨(じんこつ)収集の作業ををすすめ、本能寺の変から一箇月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた。この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。此の御廟には、武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている。 |
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本能寺は油小路通にあった。ここが織田信長の終焉の地であるのかとしばし足を止める。本能寺の変が起こらなかったら日本の歴史は大きく変わっていただろう。歴史の転換点になった場所である。現在は、当時を偲ぶものは何もないが、「本能寺跡」と刻まれた記念碑に想いをはせた。 |
学校の3年の校外学習調べで私は本能寺を担当することになったのですが、見どころと言われましても……。という感じでした。「信長公廟」なら、歴史の授業でやって知っている、超有名な信長の墓、ということでみんな興味を持ってくれるかな〜と思いテーマを「信長公廟」にすることにしました。
このページに出会っていなかったら期限に間に合わないところでした。なにしろ、ウィキはダメだと言うもので…。ありがとうございました!レン |
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