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徳川慶喜大政奉還劇の大作者、坂本竜馬は京都市内では河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に下宿していたが、遭難10日前に醤油商近江屋新助方を宿とした。竜馬はもっとも幕府側からねらわれていた大物で、新選組・見廻組の追求が急になり藩邸の堀内慶助らが気をきかせて近江屋を選んだのが仇になった。
慶応3年(1867)11月15日午後6時ごろ中岡慎太郎が訪ねてきた2、3時間後に刺客に襲われ額を横に斬られ二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前額部を裂かれ悲痛な一言を残して倒れた。中岡慎太郎は、その時に刺客に切られ17日の夕に息をひきとった。(説明板より引用)
<幕末、土佐陸援隊長>
天保9年(1838)4月安芸郡北川郷(現・北川村)の14カ村を支配する庄屋の家に生まれる。文久元年(1861)24歳の時土佐勤王党に加盟した。翌年藩外に出て、高杉晋作らと親交を深めた。元治元年(1864)禁門の変では、長州藩兵とともに幕府軍と戦い負傷する。
実践的活動に奔走した慎太郎は、幕府を武力打倒する以外に維新のないことを痛感し「時勢論」を書いている。薩長同盟を演出し、陸援隊を組織するなど倒幕活動を行った。京都近江屋で坂本龍馬とともに刺客に斬られた。慶応3年(1867)11月17日没。享年30歳。 |
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中岡慎太郎と坂本龍馬の墓は隣り合って並んで立っている。向かって左に坂本龍馬、右に中岡慎太郎である。 |
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