|
|
|
|
|
|
本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を家業とし、今も尚其の業を続けている家柄である。光悦は永徳元年(1558)本阿弥光二を父とし妙秀を母としてその長男に生まれ、幼名を次郎三郎と称した。加賀前田侯扶持二百石を父の代より受け、禁裏を始め将軍家及び諸大名の御用をもつとめたが、本業とは不即不離の芸術面にその豊かな才能を以て多くの作品を遺した事は日本文化の上に大きな功績である。
光悦が鷹ヶ峰に工芸集落を経営し、その創意と指導のもとに作られた多くの作品には作陶に於ける茶碗や、書道絵画に於ける歌巻、色紙版木を書いて出版した光悦謡本等があり其の他蒔絵に彫刻と凡そ多種多様に渉っている。然もそのいずれもが前人未踏の斬新的な表現法であり、驚嘆の目を見張らぬものはない。
書道は寛永の三筆と称され、近衛信尹、松花堂昭乗と共に名筆をうたわれ、多くの秀れた遺品がある。
寛永14年2月3日、その偉大な人生80年の幕を閉じたのである。(光悦寺・解説文) |
|
|
|
|
|
本阿弥光甫、光瑳、他一族の墓。 |
|