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天正10年(1582)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし知恩院の近くまできたが、夜が明けたためこの地に首を埋めたと伝えられている。
<明智光秀の首塚>
明治維新前はこれより東、上段の処にあり、その後現在の地に移された。墓標の石塔高さ90p弱のもの一基あり。首より上の病のあるもの祈れば霊験ありと伝えられている。江戸時代に(能の笛吹 明田理右衛門)によりこの地に移された。 |
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白川橋の近くに「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた石碑が建っている。その路地を少し入っていくと小さな祠がある。ここが明智光秀の塚である。祠の中は上の左画像のようになっている。「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)の石碑(上右画像)は、明治時代に光秀を演じた歌舞伎俳優によって建立されたものです。
逆順無二の門 大道は心源に徹す
五十五年の夢 覚来(さ)めて一元に帰す |
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