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五輪の塔が、重成の首塚です。横に並んでいる3基の墓は、大阪夏の陣で若江堤より首を持ち帰った安藤長三郎代々の墓です。
<木村長門守重成首塚の沿革>
元和元年(1615)4月、大阪夏の陣の戦いの際、徳川家康の武将井伊直孝の軍はかねてより平野口に向かう命を受けていたが、軍略上これを変更し6日に大和口に向かった。ところが豊臣秀頼の武将木村重成はすでに部下を率いて若江堤(現東大阪市)に陣をしいた。
ここにおいて激戦数刻(一刻は2時間)、一勝一敗であった。直孝の部下山口伊豆守、千野八十郎、川手主水等の諸将が先ず戦死した。木村方にも部下の戦死者を多く出した。しかし互いによく戦って勝敗は容易に決しなかった。直孝はこの有様をもどかしく思い、馬を陣頭に進め大呼して「敵の隊伍は乱れた。この機に乗じて勝を制せよ。皆怠ることの無きよう」と激しく下知した。遂に木村勢の兵は崩れて散乱した。重成も未明よりの戦いに大変疲れ、身に数ヶ所の深手を負い、身体は綿のごとく、加えて部下の兵は僅かに20余人となったので、重成は後方の堤に上がり槍を杖にして敵勢を見てみた。
この時、直孝の武将庵原助左衛門が走って来て言うのには「あなたは木村重成殿ではありませんか、さきほどよりの働きはお見事です。私は井伊の家来庵原助左衛門です。いざ見参しましょう」と立ち向かった。重成は直ちに槍を取り直してこれに応じ健闘、その手合わせは虚々実々、お互いに力を尽くす戦いとなった。けれども多勢に無勢、加えて数ヶ所の手傷に進退は自由にならず、遂に庵原の十字の槍に幌を引っ掛けられて水田の中へ引き倒された。庵原の部下は首を取ろうと近寄る。たまたま安藤長三郎が走ってきて「私は未だ著しい功名がないので、この首私にいただけませんか」と言った。助左衛門は「よろしい。この首は進呈する」と。すると助左衛門の家来が、「この首は決して他人に与えてはいけません」と言うと助左衛門はおもむろに家来を諭して「自分は井伊全軍の勝敗に責任を持つ重職であって、一騎打ちをして功を立てたいと思うものではない」と言うので家来は「では後日の証拠にするために」と重成の白熊の幌と金の捻竹の串とを取って帰った。重成の首は長三郎がこれを切り、傍にあった薄に包んで帯刀と共に持ち帰った。
重成は冬の陣の講話の際は家康の血判見届け役を勤めた。進止に節度があり、動作は礼節があって敵将等の肝を冷やさせたが、今ここに壮烈な最期を遂げ武士道の精華を発揮し、後世に武将の鑑を示し、生年僅か23歳で戦場の露と消えた。かくて直孝は重成の首を家康の首実験に供した。家康は褒めたたえた。やがて長三郎はこの首を貰い受けて凱旋のとき密かに持ち帰り、香花寺である宗安寺の自分の墓地に埋葬して、先祖の墓と並べ五輪の塔を建ててまつり、重成の戒名は並んで立つ長三郎の碑の正面に刻んだ。
即ち 智覚院殿忠翁英勇大居士 と
(この時、首を包み持ち帰った薄を直孝は記念のために御殿の傍らに植えたが、明治維新の後、御殿を壊した際佐和山神社内へ移し植え今なお繁殖している有名な血染めの薄がこれである)
けれども江戸時代には重成は敵軍の将であるから、幕府方の安藤家において公然とまつることは遠慮し、ただ大切な先祖の墓と言いつくろった。明治維新後は誰にも憚ることがなくなったのでその由来を明らかにし、世人もこれを敬い併せて安藤の心情をおもんばかった次第である。
(木村長門守重成首塚の沿革)
(佐和山神社境内に植えられた薄は、近年枯死に近い状態となり、見かねて最も由緒深い宗安寺に三たび転植され現在繁茂している)
<血染のすすき>
元和元年(1615)大阪夏の陣で若江堤に武運のつたなくして討死した豊臣方の名将木村重成の首級を彦根藩士安藤長三郎は傍らに生い繁るすすきに包み込みこれを護持して帰陣した。井伊直孝の居館としていた佐和山の麓の池で丁寧に洗い首実見を得て、大いに面目をほどこし懇なる弔いをせよとの言葉により己が菩提寺の安藤家墓所に厚く葬り、自家先祖と同様に祭祀すること今日まで続いている。
当時の佐和山下のすすきは如何なる因縁かその処に根付き繁茂していたのであるが、鉄道の敷設により根株を中腹の佐和山神社前の手水鉢脇に移された。
この宮も昭和13年(1938)廃社となり、隣地の井伊神社堀側に移植されたのであるが、近年枯死に近い状態を見かねて最も由緒深い宗安寺に三度転植したところ数ヶ月してたちまち活色を呈し、この生彩を取り戻した。360余年を経た今日、その処を一にした重成首塚を血染めのすすき、是も尊き仏縁の導きかと広大無辺の感深きを覚える。 |
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