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この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。
基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれている。銘文は磨滅していて読みとりにくいが、次のように解読・解釈されている。
南無阿弥陀佛
自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年
於在々所々敵御方為箭刀水火落命
人畜亡魂皆悉往生浄土故也
過此塔婆之前僧俗可有十念者也
應永廿五年十月六日 |
応永23年(1416)10月6日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落とした。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。
この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がった。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着した。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたる。時の遊行寺住職は遊行14代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられている。
敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長4年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られている。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいる。 |
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