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飯盛女とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕する女として公認されていたが、遊女としての側面ももっていた。藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれていたため、万延2年(1861)宿民のためとして1旅籠屋2名の飯盛女を置く許可を役人から得ている。
藤沢宿には旅籠が49軒あり、このうち飯盛女をかかえたのは27軒あった。一軒に2人ずつ置かれていた。飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償としてなかば売られて藤沢に来た。旅人の世話や食事の給仕だけでなく男たちの相手にもなった。飯盛女として悲しい一生を終えた。
永勝寺に眠る小松屋の抱えた飯盛女の墓は39基あり、内38基が宝暦11年(1761)から享和元年(1801)まで、小松屋の墓域に建てられている。このように供養された者は少なく、借金の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中、小松屋の温情がしのばれる。 |
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旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように39基の飯盛女の墓がある。この墓は源蔵が建てたものです。39基の墓石には48体の法名が刻まれていて5体は男です。(上画像は、小松屋源蔵の墓) |
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