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<(伝)小栗十四代城主 小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について>
桓武天皇の曾孫・平上総介高望から7代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重幹の四子)は、平安時代の久寿2年(1155)に、伊勢皇太宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地であった小栗山(協和市宮本)に築城市、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は15代に至るまでの300年余の間、領主として常陸国(茨城県)の小栗地方を統治され、盛衰の歴史の中に小栗武名の威光を見るに至った。
その小栗の14代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永30年(1423)8月2日、関東公方 足利持氏との激戦に奮闘拙く敗れ、小栗城は落城した。
この落城により満重はその子助重と十勇家臣とともに、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野が原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)8世(遊行14代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬された。
幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯の峰温泉(和歌山県東牟婁郡本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永33年3月16日)後、十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復した。
なお助重は、毒殺という非業の死を遂げた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝行謝恩をもって父満重と家臣の墓石を、八徳池のほとりに営んだと伝えられている。
またこの施主助重が、世上有名な小栗判官と称された室町時代の武将で、小栗15代城主・小栗助重である(御戒名・天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)。
ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、さらにその追善への意を表して、小栗主従墳墓の概略由来等を顕彰するものです(小栗伝承藤沢編)。(説明版より) |
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