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源頼朝は、治承4年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185)に平家を滅ぼした。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下3丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築いた。
正治元年(1199)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰された。法華堂は後に廃絶したが、この丘の上一帯がその跡です。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされる。
<希義公の土と石>
父義朝が平清盛の前に屈した「平治の乱」(1159)のおり、平家方に捕縛された兄頼朝は当時13才、同じ父母の下に生まれた希義は当時3才と言われているが、その後一度として兄弟の再会もなく今日に至っている。
公家政治から武家政治へ移行の戦乱の狭間、兄弟の悲哀を想い、今日互いの墓所の土と石を交換し835年の時を経て兄弟を再会させたものです。 平成6年(1994)
<源頼朝墓 国指定史跡>
源頼朝は義朝の嫡子で、平治の乱の後伊豆韮山に流されていた。治承4年(1180)北条時政の応援を得て、平氏追討の兵を挙げたが、石橋山の合戦に敗れ海路安房に逃れた。しかし関東各地の家人の支持を得て鎌倉に入り、寿永3年(1185)平氏一門を滅亡し、ついで奥州の藤原氏を滅ぼして、全国を平定するにいたった。
頼朝は源氏の御家人武士を統制するため侍所、ついで公文所などをおき、幕府の組織をととのえ、右近衛大将となり、さらに征夷大将軍に任ぜられて、幕府を開いた。正治元年(1199)53才で亡くなった。墓の下方の平地は当時の幕府跡である。 |
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頼朝の墓の横には法華堂跡がある。
<法華堂跡>
堂はもと頼朝の持仏を祀れる所にして 頼朝の薨(こう:死)後其の廟所となる 建保五年(1217)五月 和田義盛叛して火を幕府に放てる時 将軍実朝の難を避けたるは此の処なり 宝治元年(1247)六月五日 三浦康村此に篭りて北条の軍を邀(げき:迎撃)へ 刀折れ矢尽きて 一族郎党五百余人と供に自尽し 満庭朱殷(しゅあん:赤黒色)に染めし処とす |
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源氏山公園の源頼朝の像。
<鎌倉幕府歴代将軍>
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将軍名 |
父 |
母 |
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初代 |
源 頼朝 |
源 義朝 |
藤原季範(女) |
落馬(急死) |
二代 |
源 頼家 |
源 頼朝 |
北條政子 |
北条氏に追放され暗殺 |
三代 |
源 実朝 |
源 頼朝 |
北條政子 |
公暁に暗殺 |
四代 |
藤原頼経 |
九條道家 |
藤原綸子 |
北条経時に追放 |
五代 |
藤原頼嗣 |
九條頼経 |
藤原親能(女) |
北条時頼に追放 |
六代 |
宗尊親王 |
後嵯峨天皇 |
平 棟子 |
北条時宗に追放 |
七代 |
惟康親王 |
宗尊親王 |
藤原宰子 |
北条貞時に追放 |
八代 |
久明親王 |
後深草天皇 |
藤原房子 |
北条貞時に追放 |
九代 |
守邦親王 |
久明親王 |
惟康親王(女) |
鎌倉幕府滅亡により辞職 |
鎌倉幕府は、大蔵幕府・宇都宮辻幕府・若宮大路幕府の総称です。将軍は、源氏3代、公家2代、親王4代です。 |