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<保科正重と母の墓>
信州高遠城主保科正直(まさなお)の側室小日向氏女(母)と正直次男正重のお墓である。
正重は幼名を靭負(にんぶ)といい、後に壱岐守を名乗ったとされているが、出生年月や任官年月等不詳である。保科系譜の中に、京都で病没したと記されているが、江戸の説もある。没年月は墓所に、寛永十三年八月二十三日と刻まれている。
母は信州松本の小日向家に生を受け、正直の側室となり、一子正重を授かるも、小日向家は、徳川家と複雑な関係にある、真田家を出自とする家柄であり、その母をもつ正重は幕府より冷遇されていたようである。成人し妻を娶(めと)るも、若くしてこの世を去る。(没年齢不詳)子を授かるが女子であり、お家断絶となる。母は、正重没三年後の寛永十六年七月二十五日に没している。
当山を供養の場所と定めた理由の記録は残っていないが、正重の異腹の弟、保科正貞は、望陀郡内(この地域)に領地を持っていることから、弟正貞(まささだ)を頼ったものと考えられる。或いは、没するまで数年、当山境内の一角に正貞の援助を受け、正重と母が居住され、没して当山に埋葬されたとも考えられる。
中央に、観音石像が安置されているが、正重親子の供養仏として当時の当山住職か正重弟正貞、又は兄正光養子正之が奉安したものと思われる。
尚、正重の兄保科正光(正室の子)は、父正直の後継として高遠藩三万石の城主となり、二代将軍御落胤の幸松(後に正之)を養育し正光没後幸松より保科正之と名を改め藩主となり、異腹の兄三代将軍家光に重用され、山形藩を経て会津藩へ転封、二十三万石の大大名となり、四代将軍家綱の後見職として、幕閣の中枢を担い、徳川家の礎を築く。
又弟保科正貞は、家康の異父同腹妹が母であったために、徳川家より庇護を受け、飯野藩一万七千石の初代藩主となり、更に創始した家系が保科氏の本家となった。
正重の兄正光、弟正貞は、大名となり藩主の座に就くが、次男正重のみ不遇の生涯をおくり、母共々当山境内墓所に葬られている。
平成13年師走 浄土宗 選擇寺(せんちゃくじ) |
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