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中原悌二郎は、近代彫塑の夜明けを告げた作家である。はじめ画家を志したが、荻原守衛・ロダンの作品に感動し彫刻に転じ、明治43年(1910)文展に出品、第3回院展では樗牛賞を受け、第5回院展で同人に推薦された。
代表作に「石井鶴三像」、「乞食老人」、「平櫛田中像」、「若きカフカス人」等がある。「平櫛田中像」は、かのルーブルをして、「これが彫刻だ」と絶賛され、なかでも「若きカフカス人」は、日本近代彫塑の指針を示す作品であり、荻原守衛、高村光太郎とともに、一本の柱となっている。
中原家は祖父の代より函館にあって、精米業を開き、後父の代になって釧路に移住、雑貨廻船業及び漁業を営む。悌二郎は、明治21年(1888)、次男として出生、9歳のとき旭川にある母の弟の養子となる。札幌中学校在学中、無断出奔、芸術を志す。苦学と過労により肺結核を発し、33歳の若さで没した。
悌二郎は彫塑に情熱を捧げ、その身を燃やしたが、全作品は11点に過ぎず、期間は10年であり、一瞬の光芒であった。遺骨は実父忠四郎に抱かれ、当院(東本願寺函館別院船見支院)の中原家の墓に葬られている。 |
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<東本願寺函館別院船見支院>
船見支院は、日本最初の鉄筋コンクリート寺院として名高い元町の東本願寺函館別院の墓地を管理するため、明治37年(1904)に建てられたもので、現在の建物は大正15年(1926)に完成した。
この寺の墓地には、安政3年(1856)幕府が箱館に設置した諸術調所(法学の高等教育専門機関)の教授役で、五稜郭や弁天台場を設計監督した武田斐三郎の妻、美那子夫人の墓がある。稀にみる美人といわれた美那子夫人は、当時、箱館の町名主を勤め、内澗町(現末広町)に雑貨店を開いていた小島又次郎(ペリーが来航したときの様子を書いた「亜米利加一条写」の著者)の妹で、斐三郎が来籍した翌年の安政2年(1855)に嫁いだが、8年後の文久3年(1863)27歳の若さで病没した。
また、安政3年(1856)日本最初の西洋型帆船「箱館丸」を建造した続豊治のほか、明治期の函館発展に活躍し、四天王と讃えられた人など、著名人の墓が多い。 |
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