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山背泊といわれたこの地区は、開国後、函館寄港中に死亡した船員や在住外国人を葬る墓地として使われ始めた。古くは安政元年(1854年)に没したアメリカ・ペリー艦隊の水兵や翌年にはイギリス艦隊の水兵の墓碑が置かれたほか、当時日本との国交はなかったものの多数の病人発生により急きょ入港したフランス艦隊の水兵がこの地で葬られたとの記録も残されている。
明治3年(1870)には新たにカトリック墓地の設置について要望があり、開拓使は、改めて外国人専用の墓地として従来の英国(プロテスタント墓地)、ロシア(ロシア人墓地)に加え、フランスにカトリック墓地(現シャルトル聖パウロ修道女会墓地)を貸付け、明治9年(1876)には、中国人墓地(現函館中華山荘)が加わり現在の外国人墓地が形づくられた。
<プロテスタント墓地>
誰いうことなくこの墓地を外人墓地と呼んでいるが、必ずしも外国人ばかりでなくキリスト教徒である日本人の墓も混じっている。
しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外人墓地の名ができたのでしょう。
古くは、安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウォルフ(50才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの基など40基ある。 |
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<ロシア人墓地>
ここが、ロシア人墓地として公式に認められたのは、明治3年(1870年)のことで、当時の開拓使函館支庁と在函5ケ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結された。
最も古い墓は、1859年6月29日(露歴)のアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ポウリケヴィチのものです。
現在この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43基の墓がある。その中には、初代領事ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の説教者で、のちに魯学校の教師として活躍したヴィサリオン・サルトフも葬られている。
故国はるかなる異郷に倒れたロシア人も、この墓地で安らかに眠り続けるでしょう。 |
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