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外国人墓地は、いくつかの出来事が重なることによって成立した。その最初のきっかけは幕末の嘉永7年(1854)、日本の開国を求めて来航したアメリカ艦隊のペリー提督の部下の埋葬にあり、ついで横浜開港直後の安政6年(1859)、市中で殺害されたロシア使節の随員の埋葬がきっかけとなって敷地が確保された。文久元年(1861)には外国人の墓域が定められた。慶応2年(1866)に国際親善の趣旨から敷地の無償貸与の方針が確定、明治新政府もそれを受け継いだ。(説明文より引用)丘の上の墓地から横浜市街が一望できる。 |
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もと増徳院の境内であったこの地は、安政元年(1854)2月、日米和親条約(神奈川条約)を結ぶため来日中のアメリカ使節ペリー一行のうち、客死した海兵隊員を葬ったのに由来し、横浜開港後、居留外国人の葬地となった。生麦・井土ヶ谷両事件の被害者を始めとし、明治初期、日本文化に貢献したワーグマン、モレル、ヘールツなどが眠っている。
<外国人鉄道技術者の墓>
我が国の鉄道創世記には、建築師長エドモンド・モレルをはじめ多数の外国人技術者が来朝し、鉄道建設及び鉄道営業に係わる各種制度の確立、技術の伝承、教育養成等に尽力し、日本の鉄道発展の基礎作りに大きな貢献をされた。
これら外国人技術者の中には、不幸にして再び故郷の土を踏むことなく、日本で客死された方がいる。この外人墓地には、次の方々が埋葬されている。
エドモンド・モレル(建築師長)、ジョン・イングランド(建築副役)、ジョン・ダイアック(建築副役)、ゼオドラ・シャン(建築副役)、チャーレス・キングストン(鉄道巡査取締役)、ヘンリー・ホートン(客車荷車頭取兼組立方)、セオボールト・パーセル(医官長)、エドウィン・ホイーラー(医官) |
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