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曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(8世紀)、比叡山西塔北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。天歴元年(947)、当院の住持、是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した。また天仁年間(1108〜9・平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊を改めて曼殊院と称した。
現在の地に移ったのは明暦2年(1656)で、桂宮智仁親王の次男(後水尾天皇猶子)良尚法親王の時である。親王は当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の地に移し、造営に苦心された。庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところが多く、江戸時代初期の代表的書院建徳で、その様式は桂離宮との関連が深い。歴代、学徳秀れた僧の多かった名刹である。 |
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<庭園>(名勝庭園指定)
遠州好みの枯山水である。庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石からひろがり、鶴島と亀島とがある。鶴島には五葉の松(樹齢約400年)があって、鶴をかたどっている。松の根元にはキリシタン燈籠があり、クルス燈籠又は曼殊院燈籠と呼ばれる。亀島には、もと地に這う亀の形をした松があった。庭園右前方の霧島つつじは、5月の初旬、紅に映えて見事である。この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。 |
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