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粟田神社は、「京の七口」(京と各地を結ぶ主要な出入り口)の一つである粟田口にある神社で、古くから旅立ち守護の神として崇敬を集めている。祭神は素戔鳴命(スサノオノミコト)。
<創建由緒>
平安時代 清和天皇貞観18年(876)春に神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。そこで直ちに勅が発せられ、全国の諸神に御供えをして国家と民の安全を祈願されました。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願されました。
その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられました。
興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねられると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=スサノオノミコト)に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言われて消えられました。興世は夢とは思わず神意なりと朝廷に奏上し、勅命により直ちに此の地に社を建てて御神霊をお祀りしました。
また一説には、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。
旧社名は、感神院新宮(カンジンインシングウ)、粟田天王宮と称されていましたが、明治になり粟田神社と改称されました。
当社の石段下の道は旧東海道・東山道であり、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈り感謝し、このお社に参拝されました。何時しか当社は旅立ち守護の神として崇敬を集めております。(粟田神社のHPより引用) |
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