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常滑(とこなめ)の焼き物は、1,100年頃から900年の歴史をもっている。日本六古窯(常滑、瀬戸、越前、信楽、丹波、備前)のうち一番古く一番大きいと言われているのが常滑である。
ダイナミックな古常滑の焼き物は世界にもその例のない素晴らしいものである。平安、鎌倉、室町、江戸の各時代の壺かめの主要な窯場として繁栄し、江戸時代から陶芸家も多く現れて、多彩な窯場に成長した。
江戸末期に始められた朱泥焼は、豊かなローカルカラーを漂わせて多くの人々から親しまれ、全国に朱泥急須が売り出されている。
大きな窯や設備が有力な武器となって、タイル、衛生陶器、陶管、植木鉢等の大型の焼き物の産地として、又土もの陶器の特産地常滑は全国でも有数な窯場である。 |
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<登窯(陶栄窯)>
常滑の登窯は江戸時代、天保5年(1834)に鯉江方寿の父、方救が真焼け物を効率よく生産する為に導入したのが始まりといわれている。
江戸期の主流であった鉄砲窯(大窯)では、真焼け物を効率よく生産することが難しいため登窯の導入は画期的な出来事だった。
この陶栄窯は明治20年(1887)に建築願いが愛知県知事に出されており、その頃に築かれた窯であることがわかった。当初の窯は、薪や松葉で窯を焚いていたが、明治30年代の後半になると第一室目の焼成に石炭が使われるようにようになり、折衷式と呼ばれる登窯が常滑では一般的になってきた。
陶栄窯も、その頃に折衷式登窯になったと推定される。従って現在残っている窯は、明治末期の姿をとどめていることになる。
約20度の傾斜地に八つの焼成室を連ねた陶栄窯は、全長22m、最大幅9.6m、最大天井高3.1mと大型の登窯の部類に属するが明治末期の常滑では、このような登窯が60基ほどあったと記録されている。
その後、常滑では石炭窯が一般的となり登窯の数は急速に減り現在ではこの陶栄窯が残るだけとなった。そして、この窯も昭和49年(1974)1月の窯出しを最後に操業を停止し、昭和57年(1982)に重要有形民俗文化財として指定され保存されることになった。
<焚き口>
当初の登窯は薪材や松葉を燃料としていたが、明治後半には需要も増え、薪材や松葉が不足気味になり、これに代わる燃料として石炭が用いられるようになった。しかし、石炭窯を築造するには多額の資本を要するため、在来の登窯を利用し、石炭を使い燃料費の節約を計ろうとした。この改良は第一室の焚き口(ホクボ)を従来の一つから数個の焚き口に分け、それぞれにロストルをつけ石炭の燃料を容易にしたものであり、これにより第一室の焼成を石炭、第二室以降の焼成を薪材や松葉によって焼成する、いわゆる折衷室に改良された。第一室では約4昼夜全室を焚き終わるのに11日位かかった。
<出入口>
ここから製品をエゴロ等に入れて窯詰をする。そして窯詰が終わるとダンマ(築窯に用いるレンガの一種)で出入口をふさぐが、この時出入口の一部に焚き口を設けておく。
第一室に於いて石炭を焚くが、第二室以降はこの両側に設けられた焚き口から1.8m位のコワ(丸太から角材をとる時にでる端切)を室のミゾ部へ投げ入れて燃焼させる。松葉の場合は小束にしてサスマタを用い中央部へ投げ入れて燃焼した。第一室で焚かれた焔は、一度天井に上がって、ついで障子にそって床まで下がり、穴を通じて第二室の「アゼ」(床面左下穴)へ吹き上がるようになっている。室の天井や壁面は、長い間の使用により、自然釉がかかり、あたかも鍾乳洞の如く見える。 |
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石水窯・稲葉安信さんの作陶の様子。本人の了承を得て撮る。 |
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坂野晃平展ー理ー
平成19年(2007)長三賞現代陶芸展 前衛部門 長三賞受賞作家
理とは宇宙の真理か。 |