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蝋は、櫨(はぜ ウルシ科)の実を蒸してこれを圧搾し、絞り出された脂(あぶら)である。蝋しぼりは、江戸中期より行われていたが、当時は漂白のすべがなく本芳我家の祖先芳我弥三右衛門氏は、10数年の努力の末、文久年間に入って蝋を晒す技術を開発し良質な白蝋(漂白した木蝋)が生産され始めた。
維新の後、文明開化の世になると、白蝋の用途は急激に広がり、とくに明治12、3年頃は最盛期であり国内は言うに及ばず中期以後は、海外にまでこの販路を広めた。
この間には世界博覧会に出品し入賞するなど、品質、生産規模ともに日本有数の産地であった。内子町には、本芳我、上芳我を筆頭に20数軒の蝋屋がありその財力は町の経済文化の主流をなした。電灯の普及や石油製品が進出し始めた大正時代以降は、蝋の需要も減り、さらには内陸部での悪条件が重なり、蝋屋は製糸業などへ転換し、今日では内子町にこれを見ることはできなくなった。
<木蝋の用途>
蝋燭(ろうそく)・鬢付(びんつけ)ポマード・潤滑油、艶出(つやだし)・薬品・石けんなど。 |
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<釜場>
釜場とは、蝋を精製するところです。櫨(はぜ)の実から搾り取ったままの蝋は「生蝋」(きろう)と呼ばれ緑泥色をしている。そこで不純物を除き、さらに日光と水で晒し(さらし)、純度の高い白い蝋をつくる。
ここでは蝋を溶かして不純物を除き、蝋花を作るまでの作業をする。作業場は明治中頃〜末期まで使われ、その後放置されていたが、昭和61年(1986)に復元した。 |
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上芳我家は、内子最大の製?業者であった本芳我家から文久元年(1861)に分家した家で、本家と同じく、木蝋生産を営んだ商家です。明治から大正にかけての内子の製?業者数23軒で、生産量は愛媛県の約4.5割を占めたと推定される。木蝋産業が最も栄えた時期には、国内での木蝋生産量は日本一となり、海外にも多く輸出された。
製蝋業者は、住宅の付近に生産施設や蝋を晒す広大な土地を設け、多くの職人を雇い入れて木蝋生産に励んだ。
特に本芳我家は明治30年(1897)頃、製造場として施設を14棟、晒し場を4ヶ所も所有していたことが記録に残っている。しかし、大正期に製蝋業が衰退すると施設もまた取り壊されて姿を消し、現在まで住宅や木蝋生産施設、そして、敷地を往時のままに一体として遺しているのは上芳我家のみです。上芳我家は、木蝋産業とそれによって著しく栄えた内子の人々の暮らしの関係性を物語る、非常に貴重な遺産です。 |
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