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<だるま窯>
見たところ「だるまさん」が座っている姿に似ているので『だるま窯』と呼ばれるようになり、原形から徐々に発達、変化した。ここに復元されたものは、昭和30年代頃まで、八幡瓦を焼く窯としてこの地で使われtていた形のものである。
<瓦の焼き方>
●素地を、2〜3p間隔で縦・横に並べて積み込む。
●窯積みが終わると、戸口及び窓に不用瓦、または煉瓦を並べ、外側から壁土を塗り、更にその外側に板を立て、その間に砂を入れて密閉する。
●焙(あぶ)りの階段は、200〜300度を10時間ぐらい保つ。
●中だきは、300度から徐々に温度を上げ、550〜850度で5〜6時間。
●本だきは、850〜1,000度ぐらいまで温度を上げて1.5〜2時間。そのまま温度を保って良質の燃料を使って更に1〜2時間練らしだきをする。
●燻(いぶ)しは、煙出し穴を閉じて、ふかし孔をつくり、松薪、松葉などを一度にたき口から投入して、やき口を密閉する。(窯内で不完全燃焼させる)。その後約1時間ふかす。
●良い銀色を出すために、外気の侵入を防ぎ、窯内に冷水を注入するなどの技術が使われる。
●窯あけは、温度が300度以下に下がってから行う。(窯をとめてから約35〜40時間ぐらい後になる)。窯積みから窯あけまでは、約4日間を標準としていた。 |
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瓦が日本に伝えられたのは、6世紀に朝鮮半島の百済から渡ってきた「瓦博士」によると言われている。それまでの掘立柱に茅葺き屋根という伝統的建築に、礎石を置き、瓦の屋根をかける建築が出現したのです。これは建築にみる技術革新でした。その瓦屋根は、丸瓦と平瓦を組み合わせた本瓦葺きでした。以来、長い歴史の中で瓦屋根の文化はわが国に根づき発展してきた。
今からおよそ300年前の延宝年間に、瓦屋根に第二の技術革新がもたらされた。淺瓦葺きの発明です。本瓦葺きの平瓦と丸瓦を一つにまとめた波形の淺瓦が考え出された。この淺瓦を考案したのは、近江の瓦職人西村半兵衛だと言われている。
本瓦葺きの瓦に比べて約4分の1と軽く、経費も安く、葺き方も簡単で簡略葺きとも呼ばれる瓦が生み出された。
本瓦葺きに変わって、淺瓦は広く一般庶民の民家の屋根にまで普及した。淺瓦葺きが住生活の向上と、都市住民の不燃化に大きく貢献したことは注目すべきことです。(瓦ミュージアム) |
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<八幡瓦のはじまり>
昔は、日本各地に多くの瓦製造所があった。地元の瓦は地元で作るというのが普通のことだった。そうした地元産の瓦を「在地瓦」と呼び、古代や中世の瓦と区別しておく。「在地瓦」は中世末から近世以降、主に地元の粘土を材料に地元で売るために、地元の工房で生産される瓦で、工房の経営者や工人は必ずしももともと在地の者とは限らないが、定住してそこで工房を営み作られた瓦ということです。
在地瓦生産の起源に関しては、
1.城を作るときに城主が連れてきた。
2.寺を建てるとき、または改築で瓦の葺き替えに伴い呼ばれてきた瓦工がそのまま土地に定住した。
3.土地の者などがそこで瓦が売れるのを見込み、他所で修行して工房を開いたり、他所の者が移り住み営業を開始した。
等と言い伝えられている場合が多いようです。
「八幡瓦」の始まりは、当地に羽柴秀次が叔父の関白豊臣秀吉の命で天正13年(1585)築城を開始した「八幡山城」があったが、この城を造るとき瓦工が当地に連れてこられたことが起源とする根拠は今のところ分かっていない。
現在最も有力な説は、当地にある「本願寺八幡別院」の屋根葺替工事に伴い、京都深草より瓦工が移住したのが始まりという説です。この瓦工は瓦師仁兵衛を名乗り、代々その名を継いで昭和の時代まで瓦を作っていた。
本願寺八幡別院の屋根工事は、元禄16年(1703)から瓦を製造し始め、葺き工事は翌元禄17年に着手し、宝永2年(1706)の8月上旬に完了したことが確認されている。また、現時点で最も古い「八幡瓦」は、元禄8年(1695)瓦師仁兵衛作のものです。 |
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瓦ミュージアムに展示されている鬼瓦のいくつか。
<八幡城跡から出土の瓦>
八幡城本丸跡の発掘調査で、多くの瓦とともに鬼瓦や巴瓦(軒丸瓦)など、特徴のあるものが発見された。中でも、鬼瓦の模様は風変わりである。鬼瓦といえば魔除けとしての鬼面か、家紋を表す図柄が普通である。しかし、ここでは「おもだか」や大根のような野菜が描かれ、波の上を兎が跳んでいる。戦国に世に、いかにも平和な図柄をわざわざ選んでつくらせた秀次の人柄を表すものだろうか。 |
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瓦は、全て屋根を葺くためのものだけではない。例えば、囲碁の盤や枕など、瓦ミュージアム(最下段画像)には楽しい瓦作品が展示されている。 |