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<道後温泉の由来>
神代の昔、大国主命(おおくにひこのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)の二神が国造りのため伊予に来られたところ、折り悪くして少彦名命が重病に倒れた。これを見た大国主命は掌の上に少彦名命をのせ、湧き湯にひたしたところ、さしもの重病もたちまち治った。身をもって湯治を体験した二神が沿地を整えたのが、この道後温泉の始まりと伝えられている。
現在の建物は、「神の湯本館」が明治27年(1894)、「又新殿(ゆうしんでん)」・「霊の湯(たまのゆ)棟」が明治32年(1899)、「南棟」及び「玄関棟」が大正13年(1924)の建築で「道後温泉本館」として平成6年(1994)12月重要文化財に指定された。現在の姿は明治中頃から昭和初期にかけて整えられたものである。 |
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<道後温泉本館>
道後温泉本館は、松山市の道後温泉の中心にある温泉共同浴場で、明治27年(1894)に建築された風格ある三層楼の建物です。道後温泉のシンボル的な存在で宣伝用パンフなどによく見かける。泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)
浴場は「神の湯」と「霊の湯」がある。神の湯に入る。浴室には「坊っちゃん泳ぐべからず」との看板がある。浴槽は花崗岩でできており、湯釜に歌が刻まれている。歌は万葉歌人、山部赤人の作で、わが国最古の歌集万葉集巻の三にも載っている。山部赤人は、約1200年の昔、道後温泉を訪れ、聖徳太子の碑文や歴代天皇の行幸のあとをしのんで詠んだものです。
2階の休憩室は55畳もある大広間で、約100人が一度に利用することができる。ここではゆかたを貸してくれ、湯上がりにはお茶が出てくる。(入場料金に違いがある。入浴だけの場合はない)
また、明治32年(1899)に完成した皇族専用の「又新殿」もある。これは日本唯一の皇室専用浴室で、御影石の最高級品を使用しているそうである。最近の利用はないとのこと。3階は純和風の個室と夏目漱石ゆかりの部屋である「坊ちゃんの間」がある。漱石は明治28年(1895)松山中学校の英語教師だった。
本館は、複雑な屋根を持つ外観に特徴がある。その姿は、古くから人々に親しまれた温泉場の明治期以降の繁栄の様子をよく示しており、わが国の温泉建築を代表するものである。明治時代の温泉施設が、これほどまでに見事に残されていることに感銘を受ける。 |
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<振鷺閣>(しんろかく)
道後温泉本館三層楼の屋上にある振鷺閣の太鼓は、刻太鼓(ときたいこ)として、昔は1時間ごとに鳴らされていたが、現在は、朝の6時に道後温泉の開館を知らせるため6回、昼の12時に12回、夕の18時に6回、太鼓を打ち鳴らして時を告げている。
道後温泉は、国の重要文化財に指定されていることを、この刻太鼓が、まるで物語っているかのように鳴り響き、観光客にも旅情として心に深く残り、再び道後温泉に訪れた時には、この太鼓の音が一人ひとりを優しく、そして、力強く迎えてくれることでしょう。(日本の音風景100選) |
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上左画像は、道後温泉本館を入ったところ、上右画像は、アーケード街から見た道後温泉本館である。入浴料の一部は重要文化財(道後温泉本館)の保存修復に役立てられている。 |
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<石造湯釜>
湯釜は、浴槽内の温泉の湧出口に設置するもので、これは道後温泉本館ができた明治27年(1894)まで使用されていたものである。日本最古で、直径166.7p、花崗岩製である。奈良時代の天平勝宝年間(749から757)につくられたと伝えられる。湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の六字名号は、河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものと言われている。湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は、天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、享禄4年(1531)、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。湯釜を温泉の守護仏として祀り、毎年湯釜薬師祭が行われる。 |
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<芳生園「足湯」>
明治24年(1891)から昭和29年(1954)まで道後温泉で使用されていた湯釜から流れるこのお湯には、その昔、一羽の白鷺が足を癒したという伝説がある。足は、第2の心臓と言われており、「足湯」には血行を良くし、疲れを癒すなど健康増進の効果がある。松山市内電車の道後温泉駅前にある。 |